実は伊達政宗生誕の地である山形県米沢市。
近年その伊達政宗にまつわる城跡が調査の末に「国指定史跡」となりました。
いったい誰の何のお城なの?
その謎を追ってみた!
1.長らく伊達氏の本拠地だった米沢
【山形県米沢市】は顔の形をした山形県のちょうど“うなじ部分”に位置する同県南部の中核都市。
何を隠そう、コフンねこの地元でございます。
「米沢牛」などと聞くとピンとくるんじゃないかな?

大河ドラマの主役に抜擢された「直江兼続」や歴史の教科書にもその名を遺す改革を実施した「上杉鷹山」といった数多くの偉人を輩出した米沢市。


そんな米沢市にまつわる意外な事実……実はあの「伊達政宗」の出身地でもあるんだよ。

マジです。市民の半分くらいは多分忘れちゃってるけど。
元々は福島県伊達市近辺を領有していた伊達氏でしたが、南北朝時代になって現在の山形県南部にあたる出羽国長井郡を侵略。新たな拠点としました。
米沢市の中心・米沢城に伊達氏の居城が移ったのは戦国の世・伊達晴宗の代。(その孫がかの有名な第17代当主伊達政宗!)
ご存知の通り残念ながら政宗は最終的に宮城県方面へと領地替えとなってしまうのだけれど、伊達一族が米沢市域に築いた城郭の数は見つかっているだけで200を超えている。
これはハッキリ言って異常事態。
伊達時代の米沢は要塞都市だったんだね……!(これは市民の大半が知らない)
2.伊達政宗の居城?「館山城」で実施された調査とは
米沢市域に200以上存在する伊達時代の城郭のうち、「どうやら一番スゴそう」とされてきたのが『館山城』。

上記の図にある通り、3つの曲輪・巨大な土塁・深い堀切・複数の竪堀(斜面方向の空堀)・堅固な桝形虎口……山城に必須の防御施設がてんこ盛り。
規模も装備も中身も市内最強クラスである『館山城』に関して、いつしかこんなウワサがまことしやかに流布するようになったのです。
「館山城こそ、伊達政宗の真の居城だったのではないか?」
先ほど述べた通り、通説では「米沢城」が伊達晴宗~政宗の居城とされている。

しかし米沢城と館山城の両方ともハッキリとした記述のある史料が最近まで見つかっていなかったから、そりゃ疑問に思うのも不思議じゃなかったわけだ。
「伊達氏の真の居城問題」―その解決のために様々な調査が実施された。
1つは文書の調査。館山城に関わる伊達氏の記録を丁寧に抜き取り、一つ一つ精査していく。
すると、
館山城は伊達が侵略する以前から新田氏という土豪の居城であった
新田氏は伊達家に仕えるようになってもなお館山城を居城とし続けた
元亀元年、新田義直が伊達輝宗(政宗の父)に対する反乱を起こす
反乱鎮圧以降、伊達輝宗が隠居所として館山城およびその付近を再整備
天正15年・同18年に伊達政宗が普請(整備)を改めて実施
これらが発覚。
4,5で挙げた通り、もしかすると整備をして伊達本家の居城にしたかったのかもしれないけれど、実際のところ館山城は長い間伊達家家臣・新田氏の居城であったことがわかっちゃったんですよ。
もちろん新田氏は伊達家の家臣だから、館山城が伊達時代のお城であることは間違いないし、伊達のお城と言って差し支えないんだろうけど。
加えて実施された発掘調査では、館山城の中でも一際大きく堅固な防御設備である桝形虎口(上記の図を参照)が「伊達時代(新田時代)のものではナイ」と指摘されることに。
掘り下げれば下げるほど、「館山城って結局は誰の何のための城なんだ?」っていう疑問が深まった……。
3.実際に「館山城」に登ってみた。
「館山城の目的って一体……?」
うだうだ机の上で考えていても仕方がないということで、実際に登ってみました。
山形県米沢市大字口田沢長峯二および大字館山字城山―巨大な山城である館山城は米沢城から見て西北西の方向に所在し、その北側には古来より会津地方(現福島県)から米沢へのアクセスルートとして使用されてきた「会津街道」が通っている。
麓からの高さ約60mの比較的急峻な道のりを往かねば館山城の全貌はわからない……、割としんどいので覚悟なさってくださいね。
さっそく登っていきましょう。

↑の図で「大手」と書かれているあたりの南麓から登っていくと最初にぶつかるのが虎口(城の入り口)。

急な曲がり角と土塁で若干道を狭くし、侵入を未然に防ぐ構造になっている。
この虎口を抜け東側に進むと、物見(監視)用に設けられた「腰曲輪」があって、遠く東側に米沢城近辺を綺麗に眺めることができた……!

実は腰曲輪から東麓へ続く急斜面にはその落差を利用した水力発電所(大正年間操業開始)があるんだけど、水を流すパイプを敷設するにあたって斜面を凹状に加工しているみたい。

なんとなくですが、水力発電所は館山城東側斜面の凹状遺構(=竪堀)を利用したものなんじゃないか?と。東側から登ってくる敵をブロックする算段ってことでしょう。
そして曲輪Ⅰ(城郭の平坦面)を西に抜けると存在するのが……問題の「桝形虎口」だ。

曲輪Ⅰの北西部端に造られた桝形虎口は、土塁だらけで石をほとんど使っていない館山城において唯一の「石垣で造られた構造物」。石垣によってお城の入り口をL字に区画し、敵の通行と見晴らしを妨げていたんだ。
この桝形虎口、以前は埋もれていて全体像がわからなかった。発掘の結果出てきたのは、最下段のみが残された石垣と破壊の形跡……?
確かに石垣というにはあまりにも背が低いし、もともと石垣だったであろう石材はあたりに散乱中。壊れたというよりもあえて壊したように見える。
実は桝形虎口を構成する石垣は、その工法から上杉氏の時代(江戸時代初期)のモノじゃないか?と指摘されてます。
文字記録はほとんど残っていないけれど、かの有名な直江兼続による再整備があったんじゃないかって考えられているのよ。

この辺りはマジの謎なのですが、実際に石垣を見てみると確かに石材の切り出し方や積み方が丁寧で戦国期まで遡る感じはしません。少なくとも新田氏や伊達氏の時代のモノじゃなさそう。
その桝形虎口を抜けると、曲輪Ⅰと曲輪Ⅱの間に横たわる堀切(空堀)と土塁がデーン! 堀切はそのまま北側斜面の竪堀と連結していて、まさに逃げ場のない状態が作りだされているみたい。

曲輪Ⅱは何もない平坦面が続くものの、東端の曲輪Ⅲとの間には館山城で最も大きな土塁と最も深い堀切が。

ここまで追い詰められてはもう無理、泣きながら急斜面を駆け降りるほかないだろうなぁ。
まだ発掘が及んでおらず藪と木々が茂る曲輪Ⅲには、先ほどの腰曲輪とはまた違う方向を見るためのものと思われる物見台状遺構があった。

実はこの物見台から南麓方向に向けて竪堀状の地形を呈している箇所があるんだよね。

残念ながら測量図には落とし込まれていないけど、最重要監視設備を守る備えとして竪堀が存在してもおかしくはない。
現在は木々が生い茂っていて何も見えないけれど、当時は物見台から館山城の構造や周辺(特に南東方向)が非常に良く見えただろうと思う。

4.新発見!?現地調査をまとめてみた。
つまり、実際に行ってみて得ることができた新たな知見は主に2つ。
①桝形虎口は伊達時代ではなく上杉時代に造られたモノである
②腰曲輪は東・曲輪Ⅲ物見台は主に南~東を見るための監視用設備で、各々竪堀状遺構が伴っている(ガチの新発見っぽい)
地元では有名な城郭遺跡でも、良く調べてみると新たな発見があるもんなんだね……!
史料と現地の調査によって「館山城の役割/目的/城主」を巡る謎が整理できました。
A:なぜ伊達時代には会津街道ではなく米沢城の方角を意識した城づくりを行ったのか?
B:なぜ上杉氏の時代になって今度は会津街道側に堅牢な桝形虎口を建設した?
C:なぜその桝形虎口はある時期に突然破却されたのか?
詳しくは次回、考察編をお楽しみに!
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