
みなさんは中高生の頃にどの社会科目を勉強していたでしょうか?

ちなみに僕は「日本史」と「世界史」でした……が、今回取り上げる三重県尾鷲市は「地理」で必ず耳にする市町村です。
なぜかって?
実は尾鷲、日本一降雨量の多い場所なんです。
尾鷲にお住まいの方や尾鷲を訪れたことのある方の証言によれば、
「尾鷲に来ると途端に雨が強くなる」
「雨だけじゃなくて風も強い」
とのこと。不思議なまちですね~~~~~~
そんな尾鷲には、「天下の奇祭」こと『ヤーヤ祭り』が行われる尾鷲神社があります。

地名を冠する神社……なんとも由緒正しい感じがしますよね。
今回、そんな尾鷲神社の創建伝説に大きな謎があると聞き、調査を始めました。
不思議なまちの不思議な神社の謎を現地で探ってみるぞ……!
まさかの○○
「日本一雨の多い場所に行く」となれば雨具の準備をするのはもはや当然です。
取材に訪れたこの日も、折り畳み傘だけは忘れないように……と心して向かっていました。
が、

まさかの晴天。
それどころか……川の水まで干上がっているではありませんか!?

え……正直がっかり……
日本広しと言えども、おそらく雨が降っていないことを残念がられるのは尾鷲だけでしょう。
地元の方にも、「兄ちゃん、いい日に来たね」と言われる始末。
いや、いい日だけどさ。
まあ、歩きやすいからいいか……
謎多き「尾鷲神社」に到着
JR尾鷲駅から徒歩10分ほどで謎多き尾鷲神社に到着しました。
祭神はヤマタノオロチ討伐でおなじみの素戔鳴尊(スサノオノミコト)です。

境内には樹齢千年ともいわれる大きなクスノキがドカーンと立っています。

雨が多いおかげでしょうか?こんなに大きい木は全然見たことなかったです。
この神社では毎年12月に例大祭:通称『ヤーヤ祭り』が行われます。
著作権・肖像権の関係上、祭りの様子については「自分で調べて」としか言えないのですが、一言で表すなら「ヤバイ祭り」です。
「尾鷲の男たちが全力でぶつかり合う」――お祭りのメインイベントはそんな感じ。パワーワードでしょ?
ちなみに『ヤーヤ祭り』の名前は、武士が戦の際に相手に告げていたとされる「ヤーヤー我こそは……」の『名乗り』に由来するのだとか。
『ヤーヤ祭り』が始まったのは江戸時代のことだと言います。もしかしたら、江戸時代に至る前まで日本でずっと続いてきた武士の争い=戦の様子を再現したお祭りなのかもしれませんね。
まあ、『ヤーヤ祭り』についてはいろんなWebサイトで紹介されていますので、そちらをご覧いただければ……(職務怠慢)。
謎多き「尾鷲神社」の創建伝説
ここからが本題です。
実はこの「尾鷲神社」、いつ創建されたのか全く分かっていません。

というのも……尾鷲は海沿いの街。したがって、今話題の「南海トラフ」の地震が起きると大津波が襲ってくるんです。
尾鷲神社も江戸時代だけで二度ほど大津波に遭ったそうな。
その津波によって、尾鷲神社に残っていた江戸時代以前の記録が全て失われてしまった……そのため神社が「いつ」「どうやって」創建されたのか、文書による記録は全く残っていないのだと言います。
ただ……幸運なことに、口伝えによる記録はなんとか残ったのだとか。
それによると、
『尾鷲神社は西暦701~703年ごろに播磨国(兵庫県南西部)の「廣峯神社」から神様をご招待して成立した』
とのこと。
この「口伝えによる尾鷲神社創建の記録」が大きな謎なんですよ。
年代が合わない!?
『尾鷲神社は西暦701~703年ごろに播磨国(兵庫県南西部)の「廣峯神社」から神様をご招待して創建された』
この伝承を信じるならば、尾鷲神社の創建より前の時代に兵庫県の「廣峯神社」が存在していたことになります。
そこで、廣峯神社の創建年を調べてみると……廣峯神社が正確な記録(『日本三代実録』)に登場するのは西暦866年(平安時代)、古く遡っても733年(奈良時代)らしいんです。
年代がッ……合わないッ!
多く見積もれば150年以上、どんなに少なく見積もっても30年程度の差が生じてしまいます。
廣峯神社の神様をご招待して成立したはずの尾鷲神社が、廣峯神社よりも古い……?
調べてみると、この謎を解くカギが江戸時代の文書に残っているのだといいます。果たして真相は??
『播磨鑑』によれば
江戸時代、現在の兵庫県加古川市に住んでいた医師「平野庸脩(ひらの ようしゅう)」さんが書いたとされる『播磨鑑』という文書をご存じでしょうか。

知ってるほうが珍しいんですけどね。僕も全然知りませんでした。
『播磨鑑』は、播磨国の歴史・地理・名所などを平野さんが細か~く書き残した本。そこには、由緒正しき廣峯神社についても記載があるんです。
『崇神天皇の御代に廣峯山に神籬を建て、素盞嗚尊、五十猛尊を奉斉し……』
現代語に訳せば、『崇神天皇(西暦200~300年ごろ?の天皇)の時代に廣峯山に神社を建てて、スサノオノミコトやイソタケルノミコトっていう神様を祀ったぽよ~』ってな感じ。
なるほど!つまり平野さんの見解に従えば、廣峯神社の創建は西暦で言うと200~300年ごろらしい。それなら……尾鷲神社よりも廣峯神社のほうが古いことになり、尾鷲神社の創建伝説も成立します。
いやいや、こんなに虫のいい話があってたまるかよ……!
歴史的な文書の信ぴょう性の高さは、主に「起こった出来事」と「その記録」の年代差によって決まります。
例えば、本能寺の変が起こった際の記録の話では……
1.本能寺の変を目撃した人がその日のうちに書いた記録
2.本能寺の変を友人から聞いて知った人が十年後に書いた記録
この場合は1.のほうが正しい記録である可能性が高いんです。
噂話って時間を経るごとにどんどん変わっていくじゃないですか。あれと同じです。
で、話を廣峯神社に戻しましょう。
平野庸脩さんは江戸時代の人物。江戸時代の人物が、「廣峯神社の創建年代は西暦200~300年だ」と言っている……どう考えても1000年以上開きがありますよね。
しかも、西暦200~300年ごろ(弥生時代~古墳時代)はほとんど文字記録が残っていない謎の時代です。廣峯神社がその時代に存在したかどうかなんて誰にもわかりっこないんですよ。
というわけで……廣峯神社は通説通り奈良時代または平安時代に創建されたと考えるのが妥当でしょう。
では尾鷲神社の創建伝説は一体……?
結論:謎は謎のままでいい
『廣峯神社の影響を受けて成立したはずの尾鷲神社。しかし、どう考えても尾鷲神社のほうが廣峯神社よりも古いらしい……』
どう検証しても、この謎は謎のままで終わりそうです。

尾鷲神社の創建伝説もあくまで「口伝え」ですから、何か致命的な間違いがあっても何も不思議ではありませんが……確かめる術が無いのも事実。
新しい情報が出てこない限り、「尾鷲神社と廣峯神社、どっちの神社が古いのか問題」は解決しないでしょう……!!
でも、それでいいんです!!!
尾鷲神社が地域の人から大切にされている様子は『ヤーヤ祭り』の写真を見ればすぐにわかります。「創建がいつなのか?」といった問題よりも大事なのは、神社が地域内のつながりを守ってくれる場所であるかどうかだと僕は思うので……!!!
てか……雨、降ってほしかったな……

(コフンねこ)
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