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【元々は海】倉敷美観地区の礎は「鶴形山」「阿智神社」にあり!?

執筆者の写真: コフンねこコフンねこ


 

岡山県倉敷市の中心市街地といえば、皆さんご存知「倉敷美観地区」



江戸時代以来続く蔵や屋敷が所狭と並んでいる様子はあまりに美しく、多くの観光客を集めている……そんな場所です。



そんな倉敷のド真ん中が(というか倉敷の平野の大部分が)、もとは海の底だったと聞いたら驚くでしょうか?



早速検証開始ダ!


 

瀬戸内海の形成過程

倉敷を知るためには「瀬戸内海」を詳しく知る必要がある。



西日本の流通の要である瀬戸内海だけど、実は旧石器時代まで遡ると瀬戸内海なんて全く存在していなかったんだ。今は海になっている部分が全て陸地だったってこと。



西日本で初めて見つかった旧石器時代の遺跡・倉敷市児島地区の鷲羽山遺跡をはじめ、瀬戸内海が無かったころの遺跡もたくさん見つかっている。瀬戸内の旧石器人たちは今は海になっているような陸地を駆け回って狩猟採集生活を営んでいたんだね。


鷲羽山遺跡出土の打製石器。倉敷考古館の展示品。

縄文時代に入ると状況は一変する。旧石器時代は寒冷な時代だったけれど、一気に温暖な気候へと変貌を遂げた。


倉敷考古館展示の地図。海がかなり内側まで及んでいる。

瀬戸内海はこの時期に形成されていく。



これまで平野だった場所はほとんどが海の底となり、単なる山や丘だった高地は全て島になった。



倉敷には水島・玉島・児島など「〜島」という地名・地区名が多く残っている。今は本州の陸地だけど、これらは元々島だった場所。



つまり、現在よりもかなり広い範囲が瀬戸内海だったわけだ。

  

こちらは倉敷自然史博物館の地図。戦国時代も市街地は海の底だ。

そう、倉敷市の中心市街地「美観地区」ですら元は海の底!



かつての『島』『岸』に残る信仰と繁栄

倉敷で現在人が住んでいる平野部はかつて海の底だった。したがって古代人の生活・信仰の場は、現在の山や丘にあたる場所=「島」「沿岸部」だったらしい。



縄文時代にはそういった島で貝塚が営まれ、弥生・古墳時代には沿岸部を中心に数多くの首長墓(墳丘墓や古墳)が造営された。その島や沿岸部が今、山や丘になっている。



倉敷市の楯築遺跡やそれと同様の墳丘墓である辻山田・女男岩(みょうといわ)遺跡、古墳時代以降で言えば網浜茶臼山古墳・金蔵山古墳などなど……


倉敷考古館所蔵・女男岩遺跡出土の台付家。かなりの珍品。

同考古館所蔵・金倉山古墳出土の埴輪たち。

これらはかつての瀬戸内海の範囲から言えば、全て島や沿岸部に造られたお墓。彼らは瀬戸内海を見下ろすことのできる位置に墓を作ることで自身の権力を誇示したんだろうね。今ではそこから海を見ることもできないんだけど。



お墓だけじゃない。そうした「もともとは島や沿岸部だった地域」にはいくつか信仰・祭祀の形跡が残されている。



今でもそうなのだが、瀬戸内海には流れの激しい海峡がいくつも存在している。その流れの方向や変化を知らなければ簡単に転覆しうる危険な海、それが瀬戸内海。



そこで、瀬戸内海の島々や沿岸地域では『海上交通の安全』をつかさどる神がよく祀られた。



そうした場所の一つが海を挟んで反対側・四国の金刀比羅宮。でも、実は倉敷にも古代以来の「信仰の形跡」が残っているんですよ。



それこそが倉敷美観地区の中心に所在する小さな丘・鶴形山です。


鶴形山の登り口。

現在でこそ山だけど、瀬戸内海が形成されてからしばらくはもちろん小さな島。つまり、信仰の場所だったはず。確かにこの島(今は山だけど)には立派な神社が鎮座している……!



古代渡来氏族の名を残す「阿智神社」

鶴形山に鎮座する神社の名は「阿智神社」


しめ縄を見てもお分かりいただけるだろう。とても立派だ。

古墳時代に活躍した渡来系氏族・東漢氏の祖といわれる『阿知使主(あちのおみ)』の名がついている、由緒正しき神社です。



残念ながら、阿知使主が実際にこの神社の創建に関わったかどうかを証明する術はほとんどない。それでも、倉敷は古墳時代以前からものすごく栄えていたし、なんかそういう権力を持った渡来系氏族がいたのかな~とは思わないこともない。



いずれにせよ、神社の創建は中々に古く、そして神社創建以前の信仰を反映していることが考えられる



なぜなら阿智神社で祀られているのは『宗像三女神』なんですよ。世界遺産の沖ノ島で知られる「海上交通の神」です。


海上交通の神と言えば…対岸の金刀比羅宮も同様。

多分これって名前を借りているだけだろうな、と僕は考えている。かつて瀬戸内海に浮かんでいたはずの神社が、九州沖ノ島の神様を祀っているなんて信じがたい。



元々は瀬戸内海の交通を見守る在地の神に対する信仰が鶴形山にあったと考えたほうが自然じゃない?



とにかく、「鶴形山で海上交通の神を祀っている」ってことが、「倉敷美観地区は元々海だった」っていう事実を今に伝えている……!



大切にされてきた鶴形山

中世以降に干拓事業が進む中で、瀬戸内海は段々と干潟→陸地に変えられていく。



こうして、かつては「島」だった場所がどんどん「山」や「丘」になっていった。



この流れの中で現在「美観地区」と呼ばれる場所も陸地になり、倉敷川が整備され、幕府の直轄領になったんだ。すごい。時代の発展。



それでも鶴形山の存在意義は消え失せなかった。周りが海から街になってもなお、鶴形山と阿智神社は残り続けたんだ。


鶴形山から見た倉敷の街並み。

美観地区に残された蔵や屋敷は鶴形山をぐるっと囲んでいる。すなわち、鶴形山が倉敷美観地区の街並みを決めていると言っても過言ではない。



倉敷の街並みは独特のカーブを描いている。これは鶴形山を囲む曲線だ。

干拓を行うには山を切り崩してしまうのが一番早い。



事実、鶴形山の隣に存在していた「城山」は切り崩されて干拓に用いられ、江戸時代には代官所、明治時代にはクラボウの工場、そして現在は観光のメッカ・倉敷アイビースクエアに。



かつては鶴形山同様の小高い丘だった城山。現在では観光拠点に。

これは古代からの信仰の場であった鶴形山が非常に大切に扱われたという何よりの証拠になる。だって隣にあった城山は切り崩されたんだもん。



倉敷美観地区発展の礎は"鶴形山"にあり!?

瀬戸内海が今よりもずっと広大だった先史古代、今の倉敷の街並みのほとんどは海の底



現在・倉敷美観地区の中心にそびえる鶴形山も、そんな海に浮かぶ島の一つだったわけだ。



かつてその「島」では厳しい航海の安全をつかさどる海上交通の神が祀られていた。それが古代渡来氏族の伝承や陰陽道とも結びつき、いつしかそこは「阿智神社」と呼ばれる神社に。



その後干拓事業の土取りに使われてもおかしくはなかったはずの鶴形山は、結局大切に保存され、街の区画の基準にまでなっている


地図を見れば一目瞭然。鶴形山を取り囲む街・それが倉敷。

鶴形山・阿智神社への信仰が、現在の倉敷の街並みの礎になっているんです。もともとは海だったからこそ、全国でも有数の観光地になれたんだ。



倉敷に遊びに行く際はぜひ思い出してくださいね。


(コフンねこ)

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