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【松葉ガニ】歴史ある山陰の港“諸寄”の地名考察。【兵庫県新温泉町】

執筆者の写真: コフンねこコフンねこ

山陽と山陰


中国山地が隔てる瀬戸内海側と日本海側地域。


たしかに日本海側には都市と呼べる規模の街は決して多くない。


主要鉄道路線である山陽本線と山陰本線を比べてもその差は歴然としている。


山陰本線は電化されている区間がごくわずかで、京都周辺を除けば1〜2両のディーゼル列車がメイン。加えて都市からの特急がたまーにやってくるくらい。


しかも表題の「諸寄(もろよせ)」を含む浜坂~鳥取間は山陰本線の中でも特急の本数が非常に少ない区間で、さらに諸寄駅には普通列車しか停まらない……。


そんな諸寄だけど、実は地名の由来を紐解いていくとめっちゃ楽しい場所なんだよね。


以下では諸寄で見たもの、聞いたものを題材にどうして「諸寄」なのかを検証してみました。


 
諸々が寄せてくる

地名からその土地を考察するのってめっちゃ楽しいと勝手に思ってます。そんな視点で諸寄を歩いてみた。


海岸線を歩くとすぐに見つかる大量の漂流物。



「雪の白浜」と称される美しい砂浜には、日本海を渡ってやってきた中国韓国の品々もずらり。






あー、なるほどね!海からたくさん諸々の品が流れ寄せてくるからから諸寄なのか~!!


ここで早合点してはいけないのが諸寄の面白いところ。


次いで向かったのは「諸寄漁港」。冬の日本海と言えば……



大量のカニ!!!


日本海産のズワイガニ、そのオスは「松葉ガニ」と呼ばれ一大ブランドを成している。


そんなわけで、この日も怒号のような”せり”の様子が目撃できた。



こうして仲卸業者に買われていった一流のカニは、地元はもちろんのこと東京や大阪の一流料亭でも使われる。


だからこの町のカニに対する敬愛はすごくて、


こんな感じで屋根の瓦(軒平瓦)にまでカニの文様が!?



軒平瓦といえば基本的に唐草文なんかがスタンダートで有名なのに、ここではカニ色に塗った瓦にカニの文様が描かれている。なんとも珍妙な光景です。


カニ以外にも諸々の海産物がたくさん水揚げされる街、諸寄。



漁業で財を成した家庭が非常に多くみなさんが漁船をお持ちだったので、諸寄は「船主集落」と呼ばれているそうだ。


漁業は昔からめちゃめちゃ盛んだったみたい。だからいろんな魚介類が集まるって意味で「諸寄」なのか!?


実はこれも早合点。

山陰本線の開通と諸寄

山陰の集落というのは独特の形成過程をたどってきた。


日本海の荒波や地殻変動の影響で形成されたリアス式海岸と呼ばれるギザギザした海岸線がその主な理由。


近隣の香住海岸。独特な地形だ。

山と山に囲まれた僅かな平野部。海に面したごく僅かな平地に街ができ、漁業や交易流通で発展した結果今がある……というわけです。


山陰本線はそういった山々をトンネルで貫き、少しだけ開けた場所、そこにできた街に停まっていく。諸寄の街もその一つなんだよね。


その最たる例が明治44年に完成した「余部鉄橋」(兵庫県香美町。新温泉町のお隣の町。)。



山と山の間の平野を抜けるために作られたその高い高い鉄橋をもって山陰本線は全線開通を迎えた。


元々は赤い鉄橋だった。

今では余部鉄橋も既に新しくできた安全性の高いコンクリート橋に掛け変わっているのだけれど、諸寄にはまだ当時の構造物がそのまま使われています。


これが明治44年から残る赤レンガのトラス橋。この上を毎日山陰線の列車が走っている。



諸寄の街から駅へ向かうには、この赤いカニの色をしたトラス橋の下をくぐらなければならない。



今でこそクルマ社会になってしまっている山陰だけど、山陰本線開通からある時期まで、自分の街から他の街に出かけるには鉄道を使う以外になかった。


諸寄の人々は、近隣の浜坂や鳥取そして遠く京都大阪方面へ向かう際に必ずこの橋を見ていた。その下を通っていた。



鉄道ができて多くの人が集まったから「諸寄」?


諸寄駅にやってきた昔ながらのディーゼルカー。

残念ながらそんなことはない。でも、明治以来の建造物がそのまま使われているって偉大だよね。

北前船の停泊地だった

鉄道が地名の由来ではないとすると、もう少し時代を遡りたくなります。


時は江戸時代。


ここ諸寄は北前船の停泊地だった。



北前船というのは、当時蝦夷地と呼ばれた北海道と大都市大阪の間に交易の品を運んでいた船の通称。


でもどうして諸寄に??


ここまで何度も述べてきた通り、リアス式海岸の続く日本海の沿岸部は非常に風と波が荒いところ。


あまりに海が荒れていれば、船は全く進むことができないばかりか転覆してしまう恐れもある。


諸寄の波は比較的穏やか。

だから、風が収まるまで待つための港、比較的波風の穏やかな諸寄が「風待ち港」として選ばれたのだ。


北前船が停泊する場所、そこには北海道という未知なる土地の品々が多少なりとも流入する!


漂流物やここで取れる海産物以外にも諸々の品々がココに寄せてきていた……。


北前船の寄港地(風待ち港)だから『諸寄』……?


何となく今までで一番正しそうな結論を導き出せた気がする!

正解はいかに……?

結論から言おう、上記で挙げた「諸寄」の地名の由来候補は全て間違いorz。


ではここで正解を確認しよう。


地名の由来は、古くは諸磯と書いたが、有間皇子の乱で表米親王が但馬に流罪され、天智天皇元年、夷賊が天朝を襲い西国が震動した。その時五子の赦免があり、勅して大将軍とされた。その勢揃いを当地で行ったことからもろもろのつわもの寄りし所という意で、今の諸寄に改められたという。【角川日本地名大辞典】https://folklore2017.com/timei900/993.htm


むかーしは"諸磯"と言ったのだけれども、いろいろな経緯で屈強な男たちが寄せ集まったので『諸寄』になったそうな、めでたしめでたし。


あにょー、コレ言っていいのかワカンナイんですけどー、


マジかよ。嘘であれよ。


なんで脳筋みたいな話が地名の由来なんだよ……。


おそらく日本書紀か何かに記録が残っているのだろう。


日本書紀が100%真実かと言われたらそうではないんだけど、『ぼくがかんがえた最強のちめいのゆらい』よりは正しそうだ。


たしかに「諸寄」という地名は飛鳥時代頃の歴史物語に由来する脳筋的なものなのかもしれない。


正直屈強な男たちが海岸に佇む姿しか想像できなくなってしまった自分がいる。


それでもあえて言いたい。


諸寄というのは、漂流物も海産物も鉄道も北海道の幸も……諸々の素晴らしい品々や風景が寄せ集まって形成された素敵な街である、と。。。。。。



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