阪急石橋駅が「石橋・阪大前」になると聞き、いてもたってもいられなくなって自分の意見を書いたらめっちゃ読まれてるみたいでびっくりしている今日この頃。
↓
↓
石橋という街がこれほどまでに多くの人に愛されているという事実になんとなく嬉しくなってしまいました。

僕も石橋の街が大好きです。お世話になってるし。
しかーし!記事では触れることができなかったアングラな部分も石橋の魅力。
そんなアングラな部分を石橋の端っこで見つけましたので、石橋が現在の形に至るまでの経緯と絡めながらご報告いたします!
闇市から発展した街?
石橋は西国街道(京都方面)と能勢街道(能勢方面)の結節点。

阪急電車の開通時も宝塚本線と箕面線が分岐する場所として選ばれるなど、もとから人の集まる場所ではあったのですが、現在のようになったきっかけは戦後の"闇市"にあった。
配給制がまだ続いていた戦後社会、なんとかして得られた食料を通常考えられるよりもだいぶ高い値段で販売または炊き出しを行っていた闇市。
終戦で不安定な物流、配給は滞り、売る人も買う人も闇市に頼らなければ生活できなかった。
闇市というと聞こえは悪いけれど、生きるために必須だったということは伝えておきましょう。
で、そんな闇市が戦後の石橋駅前に広がっていたってワケ。駅前に掘っ立て小屋や露店が立ち並ぶ光景、ちょっぴり異様だよね。
闇市がその後どうなったのか??については諸説あって、大きく分けると
①闇市が商店街に発展した
②後に商店街を形成する人々が闇市を追い出した
との2説が主に語られている。
どっちなのかはもう少し詳しく調べる必要がありますが、いずれにせよ闇市が現在の石橋の街の根底にあったことは間違いない。
石橋に関わる人にとってはあまり触れられたくない部分なのかもしれないし、黒歴史と思っている人もいるかもだけれど、実際闇市は戦後の混乱期を必死に生き抜くために必要不可欠だったということは繰り返し述べさせていただきます。
「闇市」という名前がイメージを悪くしているだけで、生活を支えたという点でむしろめっちゃ重要だったと思うんですよ。
さしずめ「地域の人と人とが生活を支えあう空間」みたいな?
余談ですが、現在放送中の朝ドラの題材にもなっている「安藤百福」さんが世界で初めてインスタントラーメンを開発したそのきっかけは闇市のラーメンに並ぶ人々を見たことだったそうな。

カップヌードルミュージアム(池田市)を見る限りどうやら大阪・梅田の闇市での出来事のようですが、百福さんにとっては地元である池田市の石橋の光景も、もしかしたらその発想の契機の一つ?だったかもしれない。
石橋に残るアングラな部分とは?
石橋の街がどんな形であれ闇市をある程度土台にして発展したことは事実。
で、そんな面影を残しているような部分がまだ少しだけ残っていたりするのが面白いところです。
まずはこの写真を見てほしい。

三菱UFJ銀行の建物のあたりを脇道に逸れたところ、そこに立ち並ぶ少し寂れた掘っ立て小屋。某国料理屋さんと理髪店と……つまるところなにかのお店。
これ見ていただいたらわかると思うんですが、思いっきり水路の上に建てられてるの。

お店の方には申し訳ないけれどもこの際だから炎上覚悟でハッキリ言います。
コレ、違法建築なんですよ。

ね、こんな感じで池田市も注意を喚起する看板を出してるくらいには問題のある行為だそうで。
ただし現状この水路には水が流れていないし、一種のドブ川、ゴミ捨て場になってる。やばい。


水路の上という違法だけれども効率的な土地利用、そしてそれが立ち並んでいるという異様な光景。
闇市を想起させるようなアングラ部分がまだ残ってる!めっちゃ面白いよね。
残念ながらここに入っていけるほどの勇気はなかったので、度胸がついたら中の人にインタビューでもしてみたいな。
学生街への変化。
闇市が広がっていたころの石橋が上記の違法建築のようなアングラな雰囲気を持っていたということは想像に難くないのですが、じゃあいつ頃阪大との結びつきが強い学生街になったのかっていう話を最後に述べてこの記事を閉めましょう。
しかし残念ながら当時の様相や時代の流れに伴うその変化を実際に見分できたわけじゃないのでそのあたりを状況証拠で補足しつつお伝えしますね。
闇市から着想されたチキンラーメンが池田市から世に出たのは1958年のこと。

つまりそのころにはまだまだ国民の食糧難は本格的な改善を達成していなかった。
1950年代までは石橋においても露店や掘っ立て小屋の商店がそういった食料に対する需要を担っていたと考えられます。闇市ほどではないにせよアングラな雰囲気。
逆にそうでなければチキンラーメンは世に出てない。
繰り返しになりますが、闇市というものは「生きるためになんとしてでも食糧を得なければならない」という需要と「なんとかしてモノを売ってお金を得なければならない」という供給が一致したために存在したもの。

雰囲気は確かにアングラかもしれないけど、「人と人とが支えあう空間」であったことは見過ごせない。
そういった状況が変化するのは高度経済成長期。特に1960年代に入ると大阪大学豊中キャンパスの拡張工事が始まるんですね。
有名な「マチカネワニ化石」の発見もそのころのこと。

理学部棟などの新校舎建設に伴い、改めて多数の学生が豊中キャンパス周辺に集うようになった。
もともと「人と人とが支えあう空間」だった石橋。
増えた学生の需要を担う形で『学生のことも支えなくては!』という考えが起こり、地域の人々と学生の両方を主体としながら今の形になっていった……!
だから僕は石橋がみんなに愛される街なんだと思うんです。今も昔もみんなのこと支えてきたわけで。

大学とも徐々に結びつきが強くなっているし、サークル活動も盛んになっているよね。
阪急石橋駅の西口と東口。
ただしここまでの話、伊丹空港がGHQのキャンプ地として使われていた関係で飲み屋街が発達したという重大な要素を割愛しているので石橋の街のすべてを網羅しているわけではないです。すみません。
実は石橋って駅の西口(商店街)と東口(飲み屋街)とでちょっとずつ形成過程が異なるんですよ。そのあたりはまた詳しく書きたいなと思ってます。
今回はここまで。
Comments