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味噌カツ・味噌おでん・味噌煮込みうどん…といった味噌料理が数多く存在する愛知県。
それらの味噌料理の色味は、我々が普段想像する味噌の色とはだいぶ違う。
そう、「赤い」のだ。
その謎を探るべく、そんな赤味噌の一大生産地である愛知県知多半島に行ってきました。
今回訪れたのは二つのお味噌屋さん。“宝山味噌”の中定商店さんと、”伝右衛門味噌”の伊藤商店さん。


どちらも愛知県知多郡武豊町の100年以上の歴史を持つ味噌蔵。
まずはその製作技法から教えていただくことに。
我々が知る一般的な味噌ってのは、主原料の大豆に米麹をくっつけて発酵させる「米味噌」。
だけど知多半島のお味噌はちょっと違う。
その製作過程で豆と塩水以外ほとんど登場しない。原料はほぼ大豆ってこと。
したがって作り方はこんな感じ、
1.大豆を1時間から2時間水に浸し、蒸す。
2.蒸した大豆を一定の大きさにつぶして、こぶし大の「味噌玉」を作る。
3.「味噌玉」に麹菌をふりかけ、麹室で数日間菌の繁殖を進める。

4.麹菌がまわりきった「味噌玉」を木桶につぶし入れ、河原石の重しを乗せる。


5.2~3年熟成させる。(長い!)
6.完成。

発酵が進むにつれ、液体と固体がある程度分離する。

この液体がいわゆる「たまり」。味噌から生まれたうまみたっぷりの醤油だ。
ほぼ大豆オンリーを原料とし、熟成期間がとても長い。これが知多の豆味噌が赤い秘密。

熟成期間が短くお米(米麹)を主原料とする「白みそ」がアルコール系の発酵なのに対し、愛知・三重・岐阜に特有の「赤味噌(豆味噌)」はじっくりとアミノ酸の旨味を生み出す発酵を経る。
したがって知多の味噌とたまり醤油は香りこそ弱いが、そのうまみは他地域の味噌と比べても非常に強い。
「煮込めば煮込むほど旨味が立つ」、知多の味噌はそういうお味噌なんです。
古代中国の「醤(ひしお)」と似る愛知の豆味噌。
実はこの豆味噌、中国大陸でかなり昔から生産されてきた味噌によく似ているらしい。
お味噌やお醤油は中国大陸の「醤(ひしお)」がその原点。
大豆やお米や麦だけでなく何か食品を塩蔵する過程で自然発酵してできたもののことを「醤」と呼び、原料の種類によって肉醤・魚醤・草醤……に分類される。
いずれも古いタイプの醤は基本的に単一の原料を用いるのが特徴で、原料と塩と麹だけで発酵→完成。
愛知に残った豆味噌はこうした中国の古いタイプの醤によく似ているのだ。
さらに言うと、日本の多くの地域では味噌に使う豆を「煮る」。

大豆を「蒸す」のはかなり珍しい作り方なんだよね。
煮た豆・煮た米(炊いたお米)には麹が付きにくい。日本の麹菌は非常に弱いことが知られている。だから日本の普通のお味噌は煮豆に麹をつける媒介として米麹を用いるんだ。
だけど、単一の原料(蒸した大豆)に麹を直接つける=「豆麹」だけで豆味噌は完成してしまう。
愛知の豆味噌はそこらへんをうまく乗り越えている大変珍しいお味噌なのだ!
この「蒸した大豆のみを用いて」「豆麹にする」という作り方が大陸由来なんですって。
つまり、東海地方の豆味噌は日本では完全にイレギュラーってこと。
大陸の土器と一緒にやってきた?
この点について、「大陸系文化の流入」という点に注目すべきだと僕は考えています。
愛知県には全国に誇る須恵器生産地・猿投窯群があった。

古墳時代5世紀から平安時代まで続く須恵器・陶器の生産窯である猿投。その規模は非常に大きく、北は東北・南は九州まで猿投産土器が流通していたのです。
そんな須恵器の生産技術、実は大陸からやってきたもの。
「甑(こしき)」と呼ばれる特に食べ物を蒸すための土器については、須恵器生産技術流入の影響が非常に大きかったそう。

それまで日本の調理は「煮る・焼く」がメインで(蒸すこともなかったわけでもないが)、大陸方面から須恵器の甑が入ってきたことで「蒸す」ことも主流になっていく。
特にお米に関しては「蒸して食べる」というやりかたが盛んになりました。
「強飯(こわいい)」と呼ばれる蒸米は茶碗に盛る主食になったと同時に、「蒸米には日本の麹菌が付きやすい」という性質から日本酒・醤・その他もろもろ発酵食品の原点になったと考えられる。
たとえば日本のお寿司の原点である鮒ずしなんかも米麹を用いる発酵食品だね。
もちろんこの甑、猿投でも大量に生産されていた上に、古墳をはじめとする知多半島の遺跡からも出土しています。
つまり、猿投で作っていた須恵器の甑―大陸でも醤(ひしお)や酒を生産するための「蒸し器」として使われていた―の生産(とその技術)が愛知の豆味噌の源流となった可能性が高いと考えられるわけ。
「愛知の豆味噌文化は、須恵器甑生産技術とともに大陸から伝来したものである」という仮説。これにより、愛知の豆味噌が大陸系で日本の他地域の味噌と異なることも説明できそう。
それどころか愛知・知多半島はとにかく発酵食品生産の盛んな地域。
思いつくだけでもみりん・酒・酢・味噌……どれも原料を蒸して麹菌をつけるところから生産が始まる。猿投の須恵器生産の影響を考えざるを得ないって感じだね。
ちなみにこうした豆味噌を現代に近い形で大量生産・販売しはじめたのは知多半島・常滑市の三河屋さん。その江戸時代には甑に代わって蒸篭が一般的な蒸し器になっていました。
もう一つの特徴:知多の地形と味噌蔵。
知多半島をはじめとする東海地方の豆味噌生産地は基本的に海に面した地域。

特に愛知県の海は入江で波が小さく、製塩も盛んだったとのこと。
味噌生産に欠かせない「塩」が簡単に手に入るって素晴らしいことだよね。
また、海に面する地域には海陸風の影響もあります。
蔵の写真をご覧ください。


中定さんのに蔵も伊藤さんの蔵にも、強い海陸風をうまく活用して蔵の温度をうまく保つ工夫がなされていました
風をよく通すかなり大きな出入り口は蔵の南北方向に設けられており、なおかつ強い海陸風が吹く東西方向の窓はかなり小さい。
天然醸造を行う知多半島武豊の味噌蔵は基本的に外気のみで温度管理をする。
味噌が好むのは高温多湿の環境。知多半島を含む東海地方一帯は気象条件的に高温多湿になりがちなのだそう。
海陸風は強すぎます。温度が高くなりすぎる夏は空気をある程度冷やす必要があるから窓や出入口を全く作らないわけにはいかない。
だけど、冬に強い海陸風が吹けば温度が下がって発酵が止まってしまう。

その解決策が南北の大きな出入口と東西(海の方向)の小さな窓。「空気をうまく活用する」というアイディアのたまもの。
すごいぞ!知多!
知多のお味噌と流通の関係。
味噌製造業が盛んになったのも実は海の影響によるところが大きい。
江戸時代以前は先ほどご紹介した製塩業に加え、酒造業も盛んだった知多半島。
しかし知多衣浦湾の港運が盛んになるにつれ京都伏見や神戸灘の酒が流通するようになると知多のお酒は売れなくなってしまいます。
そこで伝統の「味噌」が注目された。
落ち着いた入江の製塩×独特の豆味噌。杉樽や蒸し器など、酒造の設備はそのまま味噌生産に流用可能。
設備投資をほとんど必要としない酒→味噌への方針転換により、知多の発酵文化は衣浦湾から全国へ。
もともと地域に愛されていた赤味噌の文化が東海地方全域…それどころか日本全国にその名を轟かせることになった!!
そして明治以降は特に流通が盛んに。
東海道本線建設の資材搬入港に衣浦港が選ばれ、味噌生産地・武豊(衣浦港)から知多半島を縦断して名古屋に至る武豊線が開通。

海と陸、大都市へつながる二つのルートができた知多半島は一気に盛り上がりを見せます。
当時、武豊町域には味噌蔵が20もできたんだって!(現在は中定さん・伊藤さんを含め5つ)
愛知の赤味噌文化。
愛知県民は本当に豆味噌(赤味噌)が大好き。
なんにでもソース感覚でみそダレをかけたりつけたり、
そして一番の面白いのは「煮込み料理」。


普通、味噌は火を入れすぎてはいけない食べ物とされている。香りと風味がすべて飛んでしまうからです。煮込むなんて御法度。
しかし愛知県民は味噌であらゆるものを煮込む。

最初に言った通り、発酵期間が長すぎて豆味噌にはほとんど香りがない。だけどアミノ酸の旨味はどんどん熟成されて濃厚に……。
この旨味、煮込めば煮込むほど食材と馴染んで強くなっていくとのこと。
確かにおでんのタネの中まで染みた味噌のうまみはすごかった!!

今では有名レストランが隠し味に知多の豆味噌を使うとのこと。特にカレーやワイン煮込みと行った洋食と相性がいいみたい。
いやー、知多半島すごいっす。味噌の赤さにはいろんな秘密が隠されていたんですね!!
(この記事はHD works,みつか坊主の提供でお送りしております。)
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