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源義経も訪れた?義経伝説が残る山形県・瀬見温泉に行く

執筆者の写真: コフンねこコフンねこ


みなさん、温泉は好きですか?



僕はすごく好きです。どうも、Our Local編集長のコフンねこです。



四六時中温泉のことを考えている日もあるし、ひとたび旅行に出かけたら絶えず「行けそうな温泉地」を探しています。



温泉に狂っていると言っても過言ではない。




故郷の山形県にも温泉は多くて、中には温泉好き&歴史好きの僕にはたまらない“由緒正しき温泉”もあるんです。



その一つが、山形県最上町の『瀬見温泉』



兄・源頼朝の追っ手から逃れるため奥州平泉に落ち延びる最中の英雄・源義経とその一味も立ち寄ったと言われる名湯でございます。


駅から温泉街への道中を見守る義経像

ただ……地元の方には申し訳ないですが、この手の『伝説』には眉唾モノも多く……そこで、本当に義経一行が訪れたのかどうかの検証を兼ねて瀬見温泉を巡ってみることにしました。




瀬見温泉への行き方

山形新幹線の終点・新庄駅から「奥の細道湯けむりライン」こと陸羽東線で約20分、『瀬見温泉駅』が温泉街の最寄り駅。


新庄駅

陸羽東線のディーゼルカー

瀬見温泉駅

駅正面の道を道なりに進むと約10分ほどで瀬見温泉の中心部に到達です。


サクラの終わりかけの季節

義経像が見守る美しい川沿いの道




瀬見温泉と源義経

到着したところで、あたりを見渡してみると……




ありましたありました。歴史ある観光地ならではの「解説看板」。ここでは源義経一行による瀬見温泉開湯伝説が語られている様子。



内容をざっくりまとめてみると、


  1. 兄・頼朝の追っ手から逃れるため奥州平泉を目指していた源義経一行が現在の山形県最上地方を通りかかる

  2. 山中で義経の当時の妻・北の方が産気づく

  3. 産湯の確保を目論んだ家来の弁慶が割れ目のあった岩を薙刀「せみ王丸」で一突きすると、温泉が湧いてきた

  4. 「せみ王丸」にちなんで『瀬見温泉』の名が付く


と、こんな感じでした。



一言いいですか……?



弁慶強すぎ。




瀬見温泉に残る「伝説の地」

瀬見温泉には上記の義経伝説にちなんだ名所・旧跡が数多く残っています。中でも絶対に見てほしいのが「薬研の湯」です。



川沿いに湧く源泉……何を隠そう、この「薬研の湯」こそ弁慶が薙刀で掘り出したと言われる源泉でございます。


川の一部にしか見えませんが、温泉です

つまり、義経の息子の産湯として使われた場所。


川の一部にしか……(以下略

触れてみると確かに程よい温度のお湯でした(残念ながら入浴することはできません)。



ちなみにこの辺りで湧いた源泉を利用した『共同浴場 せみの湯』が「薬研の湯」のすぐそばにあるので、瀬見温泉のお湯に浸かってみたい方は是非!


最近リニューアルされました

『せみの湯』には瀬見温泉の名物・「ふかし湯」もあります。床に設けられた穴の上にあおむけで寝転がり、湧き上がってくる温泉の蒸気を背中に受けて楽しむ独特の入浴法です。



不確定な義経伝説とは異なり、こちらの「ふかし湯」は江戸時代から確実に存在したと言われる入浴法。お殿様も親しんでいたとか。



義経伝説から江戸時代、そして現代に至るまで……瀬見温泉が歩んできた歴史を体感するには、伝説の地「薬研の湯」とそのすぐ横の「共同浴場 せみの湯」がおすすめです。



ほかにも義経や弁慶に関わる「伝説の地」は瀬見温泉内をはじめ山形県最上地方の各地に残っているみたい。これは一体どうして??




瀬見温泉に残る義経伝説の真贋は?

結論から言いますと、瀬見温泉はじめ山形県各所に残る義経伝説のほとんどは後世の創作と思われます。その理由について順を追ってみていきましょう。




第一に、典拠とする資料が弱いことが挙げられます。



そもそも、源義経がどのルートを使って平泉へ逃げたのかは全くわかっていないんです。



源義経について詳しく書かれた歴史書『義経記』には最上地方を通るルートが明確に記載されていますが、『義経記』は義経の時代と比べて少なくとも約150~200年以上あとになって執筆された史料



創作物としての性格が強く、信ぴょう性に欠けるのです。



同時代性のある史料を見ても義経の逃亡ルートに関する記載は一つもなく……もしかしたら最上地方を通ったかもしれませんが、断言はできません。




第二に、「瀬見温泉」に関する歴史書記述の欠如が挙げられます。



信ぴょう性の高くない『義経記』にすら「瀬見温泉」の名や弁慶による温泉発見の記述はゼロ



したがって、根拠が何もないわけです。



いや、そんなこと言ったって『瀬見温泉』の「せみ」は弁慶の薙刀「せみ王丸」の「せみ」じゃないか!?


薙刀を持つ弁慶さん

と、思われる方もいらっしゃることでしょう。しかしそもそも……




ここで第三の理由




弁慶自体が架空の人物なんです。




源義経の屈強な家来として名高い武蔵坊弁慶は『義経記』やそれ以降の史料にしか登場しません。同時代の史料にはほとんど記載が見られない……(※モデルになる人物はいたかも、といった程度)。



義経に関わる伝説は瀬見温泉以外にも全国各地に存在しますが、弁慶が登場する時点でその伝説が真実である可能性は低くなってしまいます


この源泉はじゃあ一体……?

だから、瀬見温泉の「せみ」も後になってつけられたのかも?



いや、もしかしたら美しい川の流れ=「瀬」を「見」ながら入浴できる温泉としてその名が付いた……


源泉から見た川。美しい!!!

とも考えられます。




いずれにせよ、瀬見温泉はもともと源義経とは一切関係がなかった可能性が高いのです。



それでは、なぜこんな伝説が広まっているのでしょうか。




義経の名を使った町おこしかも?

『弁慶が薙刀で岩を一突きすると温泉が湧いた』


薬研の湯周辺の光景

このようなエピソードは後世の創作と思われます。なぜこんなエピソードが作られたのか……を考えていくと、見えてくるのが『町おこし』というキーワードです。




『義経記』が世に広まると同時に、源義経が悲劇の英雄として日本全国に知られるようになりました。



この知名度の高さは『判官贔屓』という「弱い立場の人間に同情してしまいがち」との意味を持つ言葉が残ったことからもうかがえます。日本人に国民性を示す言葉でもありますよね。




瀬見温泉の場合、こういった義経の知名度にあやかろうとしたのではないでしょうか。


古き良き雰囲気が残る温泉街

美しい風景に囲まれ、泉質がよく、独自の入浴法まで存在する瀬見温泉。



いつの時代のことかはわかりませんが、「もう1プッシュ!」と考えて、『義経記』における最上地方経由の記述から瀬見温泉の開湯伝説を編み出したのではないか、と。



今で言う、『邪馬台国で町おこし』みたいな感じ?



ともかく、僕はこういった「伝説の成り立ち」を想定しています。




大事なのは『語り継がれている』こと

ただし、瀬見温泉で義経伝説が『長年語り継がれている』のは事実です。



毎年平泉の毛越寺(もうつうじ)から住職さんがやってきて、瀬見温泉の亀割子安観音で祈祷を行っているのだとか。


薬研の湯の目の前「湯前神社」も伝説の一部

この記事では瀬見温泉の軽い案内とともに義経伝説の真贋を検証しましたが、大事なのは『伝説が語り継がれていること』、そしてその伝説が観光の目玉になっていること



瀬見温泉の雰囲気やお湯はとても素敵です。それも、義経伝説があってこそだと僕は思います。



是非、名物の「ふかし湯」を体験しに瀬見温泉までいらしてくださいね!


(コフンねこ)

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