大学の入学式を終えると、引っ越しを手伝ってくれた家族はみな帰って行った。
期待と不安を残して。
僕は一人になってしまった。
寂しい。
近所の小さな公園に一本だけの桜の木の花を眺めることも、
城址公園のお堀に舞う桜吹雪も、
もう二度と、見ることはない。
例えどんなに「見たい」と思っても、である。
仕方がないから、京都の桜で我慢することにした。
今思えばなんたる傲慢な態度だと思うのだが、僕が初めて京都に足を踏み入れたときのモチベーションなんてそんなもんである。
綺麗だった。



桜は見る者を虜にしてしまう。
行く先々で出会う桜の色香に、シャッターを押す手が止まらない。
今思えば一種の錯乱状態だったのだろうか?
誰に見せるわけでもない写真を一心不乱に撮り続ける……。
祖母の訃報を知ったのは、それから約1年後のことだった。
生前茶道と俳句を嗜む風流な人であり、京都は憧れの地。
山形から移住したことのない祖母は、生涯に何度も京都を訪ねていたらしい。
その回数は、なんと現在大阪に住む僕よりも多いとのこと。
それほど「京都」に惚れていたんだと思う。
「せめて亡くなる前に京都の桜が見たい。」
祖母は口々にそう言っていたそうだ。
僕はここで思い出した。
誰に見せるわけでもないのに必死に撮っていたあの桜のことを。
なぜか無心に惹きつけられた、あの桜のことを。
お棺に向かって、という後悔の残る形。
しかしそれでも、美しい京都の桜を、祖母にも見せることができた。

桜の写真を見せてから約1年、
再び京都の桜が咲こうとしている。
空の上から、京都の桜は見えるだろうか。
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